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浦安市の歩み 解説

ページID K1001463 更新日  令和6年4月4日  印刷

浦安橋

昭和15年に架橋された浦安と東京(葛西)を結ぶ、旧江戸川にかかる橋です。

かつて浦安は海産物の行商など、東京に依存するところが多かったため、浦安-葛西間に橋を架け、常時往来できるようにすることが住民の長い願いでした。

昭和7年に町の有志によって架橋の促進運動が展開され、千葉県知事や東京府知事にたびたび陳情した結果、昭和10年に工事が開始され、同14年5月にしゅんこうしました。

橋名は、千葉県側の工事負担が24パーセントに過ぎなかったため、紆余曲折を余儀なくされましたが、結局浦安の要望が受け入れられ、「浦安橋」と命名され、昭和15年2月21日に盛大な開通式が行われました。

この橋は、下路式曲弦ワーレン鋼橋と呼ばれ、大橋101メートル、小橋63メートル(総延長は妙見島の中央道路部分47.5メートルを合わせ、211.5メートル)の2つの橋からなり、幅員は10メートルです。

現在の浦安橋は、交通量の激増と橋の老朽化が進んだため、昭和46年から改良工事を行い、昭和53年11月に下り線が、昭和60年3月に上り線がそれぞれ2車線になったもので、橋の両側に歩道も設けられています。

キティ台風

昭和24年8月27日、マーカス島の東南に発生した熱帯性低気圧が発達し「キティ台風」と名付けられました。同月30日に東海道一帯に接近し、31日夜に関東を直撃し、浦安にも大きな被害をもたらしました。

浦安町では来襲前日の8月30日から全職員を招集し、消防団と協力して、警戒態勢を整えましたが、31日は朝から豪雨で風雨は強まるばかり。午後9時頃に最大になり、町に突入して猛威をふるったため、堤防が14カ所、900メートルにわたって決壊。濁流が田畑を押しつぶし、畳や家財を上げる暇もないほどの早さで家々を襲いました。

その結果、家屋の全・半壊、流出は390戸におよび、水害後も赤痢の発生など、戦後まもない混乱期にあった人々を苦しめました。

本州製紙工場事件

本州製紙江戸川工場の悪水放流により被害を受けた浦安の漁民が同工場に乱入して起きた大乱闘事件。

昭和33年4月7日、旧江戸川の水が本州製紙江戸川工場からの排水で黒く濁り、浦安沿岸から葛西沖にかけて海水が変色、魚介類の大量死滅が見られました。驚いた漁民たちは直ちに会社側との折衝や関係官庁への取り締まり陳情を開始。しかし、問題解決のきざしはなく、被害は広がり続けました。

業を煮やした漁民代表800人は6月10日、国会と都庁に陳情を行い、帰路、工場に向かいましたが、工場側は面会に応じないばかりか、監督官庁から出されている中止勧告を無視して操業を続行。このため漁民はついに工場内に乱入し、工場側の要請した機動隊と衝突。漁民から重軽傷者105人、逮捕者8人、そのほか負傷者36人を出す大乱闘事件に発展しました。

これをきっかけに、政府は「公共水域の水質の保全に関する法律」を矢継ぎ早に公布。この事件は、戦後の経済一辺倒の行政に対する警鐘と反省の口火となりました。しかし、浦安の漁民たちの漁業の先行きに対する不安はその後も強まるばかりとなり、昭和30年代後半、ついに漁民たちは海面埋め立てを受け入れることとなりました。

海面埋立事業

昭和40年(造成事業着手)から昭和55年(同完了)に至る浦安の海面埋立事業。

昭和30年代に入ると江戸川上流部で工場汚水放流事件が起こるなど東京湾沿岸の海域汚染が進み、浦安の漁業は衰退し始めました。

このような転換期に昭和32年頃に日本プラスチック社から浦安町に対し、海面の一部を埋め立て、東洋一の遊園地を作りたいという申し出などがありました。

そこで、町では、議会、漁業協同組合ともども海面埋め立てについて協議を進め、昭和34年に千葉県に対し、大規模遊園地建設を主体とした埋立事業の促進を要望しました。海面埋立事業における土地利用については、浦安地区が国の首都圏整備の観点から工業用地としての利用を規制される傾向にあったため、「住宅地の造成」、「大規模遊園地の誘致」、「鉄鋼流通基地の形成」の3点を基本方針とし、千葉県事業として海面埋立事業が実施されることになりました。

昭和37年に漁業権の一部放棄が決定され、昭和40年から第1期の埋立土地造成事業が始まり、昭和50年に埋め立てが完了。また、昭和46年には漁業権の全面放棄がなされ、翌昭和47年から第2期海面埋立土地造成事業が始まり、昭和55年に埋め立てが完了しました。これにより、行政面積はかつての4.43平方キロメートルから4倍近い16.98平方キロメートルに広がりました。

なお、この数字には一部河川面積が含まれておらず、実面積と差異が生じていることから、行政面積の見直しを行い、令和6年4月1日をもって公表値を18.79平方キロメートルに変更しました。

お洒落

弘法大師の弟子空也上人が、お洒落踊りをする者は極楽往生ができると広め、下総地方を中心に流行したといわれる念仏踊りです。

娯楽が少なかった昔、信仰の厚い老若男女が寺院に集まり、お十夜や晦日籠りをした後、お洒落を踊って楽しむようになったといわれています。浦安でも盛んに行われましたが、近年他の娯楽におされて踊る者も少なくなりました。

三味線の大家、藤本会宗家のすすめで昭和47年、浦安の有志が消滅寸前のお洒落を復活しようとお洒落保存会を結成、現在に受けつがれています。お洒落は楽譜もなく、人から人へと受け継ぐより伝承の方法がないため、保存会では後継者を募って育成しつつ、定期的に郷土博物館などで稽古に励んでいます。出演する舞台によって異なりますが、ひと舞台で踊り手5人から6人、囃子方、三味線で2人から3人、太鼓、鉦(かね)、尺八、唄い手各1人の12人から13人で演じます。

対外活動として、浦安市民謡舞踊連盟のチャリティショーをはじめ、明治座、NHKにも出演したことがあります。レパートリーは「白枡粉屋」「日蓮記」などおよそ10曲。現在会員は約25人です。

昭和49年3月19日、千葉県無形文化財の指定を受けました。

浦安の祭り

大祭はおおむね4年ごとに、6月中旬の土曜日・日曜日に行われ、大小合わせて100台以上の神輿みこしと山車が繰り出し、一大イベントとなります。大祭で担ぐ大神輿は堀江に2基、猫実に2基、当代島に1基あり、ふだんは各地区の神社(清瀧神社・豊受神社・稲荷神社)に安置されています。

浦安の祭りはもともと10月の各氏神様の祭礼として、あるいは、神社の改修の際などの臨時の大祭として各地区ごとに行われていましたが、大正時代から神輿が登場し、6月に行われるようになりました。

かつては民家に突入するなど暴れ神輿といわれるほど激しい祭りで昭和30年代に不況による財政事情の悪化や警備体制の関係から一時中断されましたが、昭和49年6月に復活しました。

市民憲章

理想的な浦安市を建設するため「ふるさとづくり推進協議会」が中心となり、公募により検討し、市議会の承認を得て、市制施行を記念して制定しました。

前文と5項目からなる本文で構成され、郷土の誇りと将来の理想像への願いをこめ「人間性豊かな調和のとれた明るいまち」をつくりあげるための規範や約束を盛り込んでいます。

市民憲章

豊かな伝統と美しい人情に恵まれた浦安市民は互いに手をとりあい、やすらぎのある緑と健康の海浜都市をめざす全市民の願いをこめてこの市民憲章を定めます。

1.近隣を大切にし、思いやりのあるあたたかいまちにしましょう。

1.自然を大切にし、緑あふれる明るいまちにしましょう。

1.教養を高め、豊かな文化を育てうるおいのあるまちにしましょう。

1.勤労を尊び、健康で若さあふれるまちにしましょう。

1.善意を尊び、笑顔といたわりで心のふれあうまちにしましょう。

非核平和都市宣言

昭和60年3月、浦安市は、核兵器の完全禁止と廃絶を希求し、世界の恒久平和確立のために「非核平和都市宣言」を行いました。

非核平和都市宣言

真の恒久平和は人類共通の願いである。

しかしながら、核軍備の拡張は依然として続けられ、世界平和に深刻な脅威をもたらしていることは、全人類のひとしく憂えるところである。

わが国は、世界唯一の核被爆国として、また平和憲法の精神からも、再びあの広島・長崎の惨禍を絶対に繰り返させてはならない。

私たち浦安市民は、日本国憲法に掲げられた恒久平和主義の理念のもとで“緑あふれる海浜都市”づくりを進めており、その実現もまた平和なくしてはあり得ない。

私たち浦安市民は、被爆40周年の節目にあたるこの機会に、非核三原則が完全に実施されることを願いつつ、すべての核兵器保有国及び将来核兵器を所有しようとする国に対し核兵器の完全禁止と廃絶を希求し、世界の恒久平和確立のため、ここに『非核平和都市』となることを宣言する。

昭和60年3月29日

干葉県浦安市

市章

浦安誕生100周年記念事業の一環として、21世紀に向けて発展する浦安市を象徴するにふさわしい、新しいシンボルマークである市章を公募しました。この市章は、1,205点の応募作のなかから選ばれたものです。

市章のデザインは、URAYASUの「U」を身近な海、束京湾のイメージでかたどり、それに、今まさに昇ろうとする「太陽」を組み合わせて図案化したものです。左右に配置された3本の線の変化が、「心の和の広がり」「緑あふれる大地の広がり」「輝く未来への広がり」を表しており、豊かな海と緑に囲まれて、人の心を大切にしながら、未来へ向かって発展する浦安市の姿と願いが込められています。

べか舟

べか舟が多数浮かぶ昔の境川の様子

べか舟とは、のり採り舟のことです。

長さ12尺(3.6メートル)、幅2尺8寸(84センチ)位の薄板で造った小舟です。幅が狭いのが特長で、これはのり棚の間隔4尺(1.2メートル)に入りやすくするためでした。

一人乗りで艫部に縛りつけたかいぎます。のちに、機械化され、4馬力から5馬力の発動機を取り付け、のり採りも電気掃除機のような長い柄がついたモーター付きの採取機で、のりの網の上から吸い込んで採るようなりました。

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郷土博物館
〒279-0004 千葉県浦安市猫実一丁目2番7号
電話:047-305-4300 ファクス:047-305-7744
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