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浦安村の誕生

ページID K1001461 更新日  平成30年8月20日  印刷

明治22年、町村制の施行に伴い堀江、猫実、当代島の3村が合併して「浦安村」が誕生しました。
当時の戸数は1040戸、人口5946人。その命名の由来は、当時漁村であった当地の漁浦の安泰を祈願する意味で、初代村長新井甚左衛門によって名付けられたといわれています。
また、一説には日本国は昔「浦安の国」と称したことから、この名を採用したともいわれています。

その頃の主な交通手段は、明治27年に開航した川蒸気船「通運丸」でしたが、大正8年には定期船「通船」「葛飾丸」が就航、浦安-高橋(江東区)間を約1時間半で結び、発着場となった「蒸気河岸」は大変な盛況ぶりでした。
その後、昭和15年に浦安-葛西間に浦安橋が開通するとともに自転車、自動車の普及が進み、60年余り浦安の重要な足として親しまれた船の交通は、19年に廃止されました。

明治42年9月「浦安町」がスタート。
昭和初期の浦安の産業は、のりの養殖やアサリ漁など水産業中心に栄え、境川や船圦川にはべか舟がひしめき合い、漁師町として発展しました。

一方では浦安の歴史は、さまざまな災害に立ち向かう歴史でした。大津波や大火によりいく度となく、まちは甚大な被害を受けてきました。

昭和19年には米軍の空襲に見舞われ、家屋の焼失など被害が相次ぎ、犠牲者を出しました。
戦後の混乱が続く24年8月31日、キティ台風の来襲による堤防の決壊や高潮の被害が続出し、家屋の倒壊・流出や農漁業などの産業にも凄まじい爪あとを残しました。

33年4月、本州製紙江戸川工場からの排水による魚介類の大量死滅が発生し、6月には工場に押しかけた漁民との間で大乱闘事件にまで発展しました。
この事件がもとになり、「公共水域の水質の保全に関する法律」などが公布。深刻化する漁場の汚染と京葉工業地帯土地造成のための海面埋め立ての進行を受け、37年漁民は漁業権の一部を放棄し、39年秋から海面埋立事業が本格化、住宅地造成などが進みました。46年には漁業権を全面放棄するまでに至りました。

44年3月、地下鉄東西線が開通し浦安駅が開業、東京のベッドタウンとして都市化が急激に進行しはじめました。
53年1月の首都高速湾岸線の一部開通によって道路のアクセスも良くなり、54年5月には人口5万人を突破。
56年3月第二期海面埋め立ての最終部分が終わり、市域が16.98平方キロメートルへ。
56年4月1日に念願の市制施行を果たしました。

58年4月、東京ディズニーランドが舞浜に開園し、新しい浦安のシンボルとなりました。
62年5月には人口10万人を突破、翌63年ベイエリアのホテル群がオープン。また、待望の京葉線が開業したことにより、ますます都心が近くなりました。
平成元年、浦安誕生100年の年にフロリダ州オーランド市と姉妹都市提携を果たし、着々と国際化を進めるなか、18年には市制25周年を迎えました。
その後も浦安市は、未来を見据えた都市計画を順調に進め、人が輝き躍動するまち・浦安を目指しています。

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